印象に残った記事
●「安全」方便にすぎず 愛媛新聞社(2011年3月30日の記事から)
これは原発事故を「リスク」としてとらえ、その発生確率と影響を定量化して管理するというもの。要するに、確率を使って客観性を装う安全管理手法なのだが、たとえ1万分の1の確率であろうと、実際に起きてしまえば確率にはなんの意味もない。彼らは、「安全評価」という名のもとに、自らの役割も定量化して責任の低減をはかろうとしているのではなかろうか。
(中略)
さらに今回の事故であらためて露呈したのは、原発の安全は電気でしか確保できないということである。発電機の安全を電気で確保するというのは根本的に矛盾しており、欠陥システムとしか言いようがないのだ。 (ノンフィクション作家 高橋秀美氏)
● 第130回 システムの「想定」にまつわる想像力とは
どこまでを「想定」するかということになると、工学的には、既存の蓄積されたデータを集め、それを統計処理して、運用期間内で99.9何%はこの範囲と いった計算をし、さらに安全率などを見込んで倍率をかけ、よってここまで想定すればOKといた考え方をするのが普通だろう。工学的な考え方としては間違っ ていないように見える。しかし、自然現象に対しては実は問題があったということになるだろう。蓄積されたデータといっても、しょせんは「科学」が定着した せいぜい百数十年程度の期間しか統計処理に適するようなデータはないはずで、われわれが持っている自然現象のデータなどは極めて限定的なものであるから だ。そしてまた、その想定の是非というものは、せいぜい各個人の高々数十年の人生経験の範囲であったり、高々数千年ばかりさかのぼることができる程度の歴 史記録の範囲で検証されるに過ぎないように思われる。よって今回のような前例のない規模の自然現象は想定できない、ということになるのだろう。
●反原発と推進派、二項対立が生んだ巨大リスク
原発を含めて日本の原子力技術受容の歴史について振り返って書いた『「核」論』では原子力反対派と推進派が互いに不信感をもって向き合い、最良な妥協点を見出せなくなっている事情を書いた。福島第一原発はまさにこうした構図の中に置かれてきていた。